YUNON STUDIO BLOG

ユノンスタジオ主宰のブログです。

脚本の書き方は昔の8bitレースゲームに似ている

一週間過ぎるのが早い。それはもう、ほんとに早い。どんなに自分なりにやる事を詰め込んでも、まぁ実際やれる事は限られていて、気付けば「あぁ、もうそろそろブログ書かなきゃなんだな」なんて時期になって焦る。

1週間が早いという事は1ヶ月も同じ速度で早い。そして1ヶ月が早いという事は…うん、そう、今日はもう2013年の折り返しだったりするわけだ。

時間がないなぁ…2013年後半戦は本当にやる事いっぱいで大変だ。でも、人生で1番忙しい3年間にしようと早々に覚悟を決めたから、ストレスは特に無い。忙しい人を観てストレスを溜めるのは忙しい人の事を好きな周りの人なのだろうと思うから、それはもう十分注意していきたいなぁと思うけど、できる事はきっと注意する事くらいだ。ストレスを感じているかどうか解ってあげられるかどうかでしかない…そのストレスを解消する方法を具体的に取る事は多分残念ながらできず、「理解はしているよ」という、その意識のみで多少ストレスを軽減してもらうくらいしかできない。

 

と、こういうような事を考えていると…ふと僕は脚本構成についても同じように感じる事を思い出す。結局リアルタイムを消化して人が何かをしている様を描く以上、実生活に脚本が似てくる事はしごく当然のように思う。

 

脚本は8bit時代のレースゲームに似てる

脚本というものを、僕はいつも昔のゲームセンターやファミコン時代のレトロレースゲームのように感じながら書いている。当時のレースゲームというのは、コースに対して規定のタイムでクリアをしないとゲームオーバーになる仕組みを採用していた。タイムは減算式。例えば20秒のタイムがスタート時にあるとすると、スタートと同時にタイムが減ってゆく。プレイヤーはそのタイムが0秒になる前に次のチェックポイントにたどり着かないといけない。そして次のチェックポイントにたどり着くと、秒数が加算され更なるコースをトライできるようになる。

 

昔のゲームは難易度が高い

で、昔のゲームというのは、それはもうとても難易度が高くて。チェックポイントまでのミス許容回数が1回、もしくはまさかの0回だったりする。2度ミスすれば、もう時間が間に合わずゲームオーバーになるのだ。

この難易度の高い制限時間が僕は、とてもとても脚本構成に似ているなぁと思う。

 

観客から、作り手に提示される減算式の制限時間

観客は上演された、もしくは上映された作品に対して100%の集中力を持って臨む。その100%の集中力が、徐々に徐々に制限時間の減算のように減っていき、面白い場面や展開に応じて再び集中力を加算方式で取り戻す。

物語の書き手である僕たちは、だからこそ観客の集中力の減る速度を計算し、都度適切な場所でチェックポイントを設けなければいけない。

まぁ実際は、自分でチェックポイントを設けるわけでもないのだけれど…なにせこれまで様々な作品が世の中には生まれ、そして名作と呼ばれるものが誕生した事により、実はそのチェックポイントはもう、かなり正確な形で先に作られてしまっていると言っていい。そう、つまりは脚本家はやはりレースゲームでいうところのプレイヤーなのだ。後部座席に乗せた観客を、安全にミスなくしっかりとチェックポイントを通過させ、ゴールまで運んであげなければいけない。

 

名作脚本のリアルタイムエクセル模写で解ったこと

僕は数年前から、好きな作品を観賞しながら脚本をリアルタイム模写する事が趣味だ。脚本模写する場合はいつもエクセルを使って、分数は勿論の事、シーンで描かれる感情の数値をポジティブ/ネガティブである程度主観的に書き留めたりする。そうした模写を繰り返した結果、ある日エクセルでソートしてみれば、世の中的な名作はもうまぎれも無く正確に、物語を展開させなければいけないチェックポイントの分数で、必要な作業を全部クリアしている事が透けて見えてきた。

具体的な分数が見える事は書き手にとって自信になるし、正直とても楽になる。より理論的にも機械的にもアプローチする事ができるからだ。でも、同時に、とてつもないプレッシャーにもなって制限時間は押し寄せてくる。その分数で成すべき事象、展開、説明をクリアできない限り、観客を「感動させる」というゴールには届けられない事を意味する。実際、演劇でも映画(の場合は途中で楽々と帰れるけど)でも作品は終了するまで大概観てもらえるのだけど、実は既に早い段階で車は事故でゲームオーバーになっているというわけだ。そのゲームオーバーになった作品を見終わった観客の感想は、つまりとても残酷な答えになるのだと思う。

 

職人達はそれを企業秘密として非公開にしている

脚本の物語の構成本っていうのは色々あるのだけど、実は分数まで正確にしたような構造分解論ってあんまり無いように思う。何故無いかの理由は自分なりに解っているつもりだ。端的に言うと、それは「作り手があえて、商売の為にその事実を隠している」のだと思うのだけど、そこらへんは、また次のブログにでも書く事にしましょう。

分解論に興味があったり、もしそうした内容に作り手サイドの人達(役者、脚本、演出等問わず)反響あるならば、ちゃんとこのブログに書き示して、脚本のオープンソースにして残していけたらなぁと思う。

 

 

メキシコ戦終わりの雑感。日本代表のDFラインコントロールについて

人生で何よりも優先すべき事に深夜の時間をたっぷり費やして、5時くらいに家に着いてなんとなくヤフーニュース見てたら日本ーメキシコ戦が今日やっているという事に気付き、慌ててTV観戦。

なんかどうやらブラジルとの時差感覚得意じゃないっぽい。正直言うとブラジル戦も一日間違えてたし、今日もそう。来年のW杯もこんな調子で何個も観たい試合を見逃しそうだ。あんまりサッカーを文字化して語る事は好きではないのだけれど、後半だけ観た感想でいうと、普段から猛烈に走る事を前提とした戦術で戦っているので、中2日で完全に消耗しきっている選手達にはもはや戦術も糞もないんだよなぁ、という印象。

 

日本代表のスプリント事情

負けている局面において、もっと走らないととTV解説者はよく言うのだけれど、選手感覚で見てると、んなこたぁ言われなくても解ってるよという感じなので、事の問題は、んじゃあどうしたら疲れてても効率よく走れるようになるかという所だと思う。

結論、当たり前の事だろうけど走るうえでの一回の距離を細かに節約してゆくしかない。これが実は90分単位だととても違う印象や輝きを加えてゆく。だからこそ現代サッカーのDFは勇気を持ってラインをあげなきゃいけないんだと思う。

日本代表の、というよりザッケローニのサッカーで不調な場合は、大抵DFラインが下がってしまっていて、DFがボールを奪ってボランチに渡しても、2列目との距離が長過ぎてパスの出しどころが無い→2列目がもらう為に必死に走って下がってくる→そこから押し上げようとするも手詰まり→体力消耗→またズルズルライン下がる。という感じで悪循環に陥ってゆくパターンが多い。

 

 

日本代表DFラインはボランチ依存

で、こう書くと、じゃあ駄目なのはラインあげないDF陣のせいじゃん!と思われがちだけど、実は日本代表の現在のラインコントロールはほぼボランチに依存している場合が多い。ボランチとの距離感をセンターバックサイドバックも大事にしているようで、これはきっと何かしらの約束事が存在するのだと思うのだけれど、そのせいで、ボランチがちょっとでも下がると一気にラインが下がってしまう。

ここのバランスを普段ふんばって担っているのは、そう、長谷部だ。だから長谷部が調子良いときは自然と日本代表のサッカーは調子いいけど、長谷部が調子悪いor今日のように長谷部の代わりに誰か出ていると途端にラインが下がり気味になる。

もちろんこれは敵チームのプレスの強さにもよるのだろうけど、実はそんなに関係ないんじゃないかなぁと思う。

 

ボランチ遠藤の役割はそれではない

もう一人のボランチである遠藤が全盛期から衰えたかどうかなどというのが最近盛んにサッカーフリークの間で議論されているけど、そんなこと特に関係ないように思う。だって遠藤という選手は元々そのラインコントロールに積極的に能動的に関与しているような選手ではないと思うから。相対するペアのボランチ選手との距離感を大切にし、その距離感の中で適切なパスコースを見いだす選手。故、フリーでも自分でドリブルしてボランチラインを押し上げるような行為は勿論しないし、やる事はチーム全体をゆっくり押し上げる、つまりはやはり他の選手を動かすのだ。

 

ボランチが上がれば、おのずと日本の武器(2列目)が輝きを増す

という事で、現代表の肝を勝手に長谷部ポジションと思っている僕的には、現状の不調時のサッカーを離脱する為には早急に長谷部ポジションに新たな戦力を探すべきと思っている。求める選手は書いてある通り、自らのポジションを勇気を持って強引に押しあげられる選手だ。ドリブルできなくてもいい。パス多少下手でもいい(決定的なカウンターさえ食らわなければ)、自分の上下運動を躊躇なくできる選手がいれば、おのずとそれに呼応して遠藤は適切なバランスを取ってくれるし、それに準じてDFラインは高い位置で勝負してくれる。意外と高いラインでの守備に日本は強い。ここの所立て続けに大量失点してるけど、僕のイメージだとラインが下がっている時と、あとは結局セットプレー。これってつまり、セットプレーも実はラインが究極に下がっている状態なんだよね。

高いラインで勝負してれば、パスの出しどころはワールドクラスの2列目の猛者達、香川本田岡崎(清武でもいいよ)が縦横無尽に応えてくれるし、そこから直ぐに前を向いて色々な選択肢を整えてくれる。

 

長谷部に代わる日本代表的ボランチ

細貝は敵選手を潰すプレイは確かに素晴らしい。けど、この押し上げ役に向いていない。遠藤の代わりはいないとか皆言うけど、だから実は細貝が誰かに代わってピッチに出るとするならばそれは遠藤のはず。

清武ボランチ説を唱える人もいるけど、これはあんまり効果ないと思う。清武もどちらかというと遠藤タイプな感じ。本田も、後ろにするとせっかくの武器が一つ減る。

んじゃあ現代表で長谷部以外誰がいんだよ?となると、僕は迷わず今野を指名。彼もともとボランチだし押し上げる勇気もある。チームがチグハグな状況の時は(例えば今日みたいな日)、いつも栗原入れて今野あげちゃえよーって思ってる。

新しい若い選手で誰かいないの?となると、これから先にある東アジア選手権はどうやらJリーグの選手限定で若い選手沢山起用するみたいな噂になっているけど、僕的に長谷部ポジションに是非一度入ってみてほしいなぁと思うのはC大阪の山口蛍、鹿島の柴崎学。あとは柏の茨田陽生。そんな感じでしょうか。

まぁ、でも•••茨田が選ばれる事はないんだろうなぁ。。。見たいけどなぁ。

 

何はともあれ、3連敗をバネにもっともっと強くなってほしいですね。

ザッケローニのサッカーは、1年半〜2年前までは確かに素晴らしい瞬間を何度も見せてくれていたのですから。僕は、好きなんです。調子良い時のザックのフットボール。

 

 

 

 

舞台役者さんにとって必要な、観客の視線誘導手法

視線誘導。

 

舞台演出を始めてから、稽古場で僕が一番多い頻度で使った単語だ。

キャラクターの感情を突き詰める事はやっぱり皆どの役者さんも上手なのだけど、感情を突き詰めた先にある弊害として、客の視線を自分に向かわせる事への注意が疎かになってしまうパターンが想像以上に多い。つまり、とても良い表情でとても良い台詞を発しているにも関わらず、その役者を客が見た時には既に台詞が喋り終わってしまっていたりする。もともと映像畑で編集業をしている僕にとっては、視点誘導を作る事こそが映像編集の中核みたいなものだから、舞台上で視点誘導が失敗している瞬間が何よりも気になって仕方がない。舞台役者さん達はもっともっと人の視線の動きに関して注意を払うべきだと思う。それだけできっと、同じ感情を入れているお芝居に対するイメージが何倍もきっと良くなる。

 

では、具体的にどうしたらお客さんの視線をしっかり誘導できるのか。

 

☆人を反応させるには五感を刺激するしかない

僕たち人間は五感と呼ばれる装置を持って生きている。

視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚。けれど舞台を見ている観客が使える感覚は前の二つにほぼ限られてしまうだろうから(香りは使うところもあるだろうけども)、つまりは客の視覚と聴覚に頼る事になる。逆に言えば、観客も観客でその事を承知しているのだから、観客達は普段以上に視覚と聴覚に敏感になってくれているともいえる。

 

例えばスポットなどの照明光やSEなどの音響効果で注意をひく事などは、演出サイドの領域になるので今回は省いてしまうとして、じゃあ役者さんはどうやって観客に自分を見てもらえばいいかというと、本人にとってはやっぱり動くしかないし、喋るしか手だてがない。

 

☆視覚(知覚)の遅れは0.5秒〜

役者が動くor喋る→観客がその役者に向く→役者が重要な行動をするor重要な台詞を喋る。この一連の流れに必要な時間は、視覚(知覚)の遅れを加味するならば0.5秒〜1秒程だ。作品的な死に間を作らずに、つまり0.5秒稼げばしっかりと観客に表情も言葉も感情も受け取ってもらえる事になる。

 

☆ヒントは幼稚園のお遊戯会

これ、幼稚園とかのお遊戯会を思い出してもらえば解ると思うのだけれど、実際園児達は皆これをやらされているんだよね。一歩前に進んで喋る、また別の人が一歩前に進んで喋る。照明設備もない幼稚園で、いわゆるお芝居ができない年齢の子供達をどうやって親御さん(観客)にしっかり見てもらうか考えたあげくの極限までにデフォルメした演出が「先に動いて止まって喋る」だったわけだ。これはあながち馬鹿にはできないお話で、つまりは上記のそれをしてしまっては勿論おしばい下手の烙印を押されてしまうわけだけど、視線誘導を考えて行き着く先は「一歩前に進んで喋る」である事をしっかりと認識した方がやり易いのではないかなと思う。あ、でも勘違いしないで欲しいのは、一歩前に動けなんて事はもちろん言ってないわけで、動いてから喋るまで(逆もまたしかり)の0.5秒〜1秒の間で、どのような動作とタイミングでその台詞を放つか、キャラクターの感情とどう折り合いをつけるかをせめぎあってこそ、作品に必要なお芝居が完成するのだと思う。というような話。

 

☆共演者としての視線誘導アプローチ

さきほど「本人にとってはやっぱり動くしかないし、喋るしか手だてがない」と書いた事には理由があって、本人以外からも実は観客の視線というのは誘導できる。そして実はこちらの方が遥かに重要な事だったりする。

共演者が振り向いてくれたり、視線を送ってくれると、観客もまたその向いている視線の先を見る。つまりはスポットライトのような効果を実は役者さん同士で持たせ合う事ができる。けれどなかなか、そこらへんの作為的なコミュニケーションが実は行われていないなぁと残念に思う。例えば役者Aが役者Bを見れば、観客は役者Bを見る。するとどうだろう。役者Bは初動のタイミングなど気にもせずに感情を爆発させられる。それはつまり0.5秒のいくぶんかの短縮を意味することにもなる。

大概の作品のどんな役者のクライマックスシーンもほどよく見える(観れる)のは、上記の理由が大きい。もとより脚本上で互いに言葉や感情をぶつけ合うシーンであるが故、視線の交換が絶えず行われ、そしてリズムが早まる。結果、感情を爆発させたキャラクターの表情や行動を観客は逃す事なく捉えていて感動する。さらにはクライマックスだと音響と照明効果も花盛り。パズルゲームでいうとその状況は結構なイージーモードだ。

 

☆視線を向ける上での注意点

ただ視線を向けていれば観客もそっちに向いてくれるというわけではない。先ほども書いたけれど、観客は視覚と聴覚によって作品を鑑賞しているから、その二つに対して観客は非常に敏感になっている。だからこそ更新される新しい情報に対して、即座に反応してしまう。という事は、ずっと相手に視線を向けていたとしても、観客は最初の一回しか反応をしてくれないという事だ。もう一度相手を見てほしければ、もう一度視線を適切なタイミングで送らなければいけない。だからずっと真面目に相手を見つめながら会話をする事のリスクを役者さんは考えて演じなければいけない。もちろんコミュニケーション中に視線があやふやなお芝居は集中力を削ぐし、コミュニケーション能力の低いキャラクターを演じているという望んでもいないディテールに変化してしまう可能性もあるから注意をしなければいけないので、自分以外の共演者に常に適切にアシストするという事は本当に難しい事だと思う。ただ実生活を参照すれば、誰かと会話している時にずっと見つめ続ける事なんて事はほとんど無いわけで、それが例え大切な商談相手だったとしても、視線を外して許容されるタイミングは多々ある。それらを日常生活から体にしっかり取り込んでお芝居に転化するべきかなと思う。

 

☆道井良樹という人

急に個人名を出すのも変かもだけど、僕が4月に公演した舞台に出演してくれた道井良樹さん(電動夏子安置システム)という役者さんは、その誘導アシストが本当に上手い。視線を送るタイミング、視線を外して違和感なく別の風景を眺める、また相手へ意思を向ける、その流れがとても自然で見ていてドキドキするほどだった。

彼が主演を演じてくれているだけで、更に4月の舞台は彼演じるサボテンが物語の狂言回しのポジションであるからして、その恩恵があらゆるキャラクターに随所に効いて皆満遍なく美味しいスペースを手に入れられた。おかげでこうした難しいお話を事細かに説明せずとも順調に稽古は進んでいったのはとても良い思い出。そういった役者さんがもっともっと増えればいいなぁ、と思う。

役者さんだったり、志望している子達はそうした部分を考えながら道井さんの舞台を観に行ってくれたらなぁと思う。観るだけでは中々習得できないからあれだけど、でも上手さという面はしっかり実感できるかと。

道井さんは明日、明後日で終わりみたいだけど今も新宿シアターサンモールで舞台をやってるので是非。今回は端役なので、縦横無尽に視線を操作する道井さんの本領(才能)はいつもよりも影をひそめておりますが。。。それでも堪能できます。所属劇団では常に爆発してるので、そっちの方も何個か情報最後に乗せておきます。

 

あ、あと、四月公演でいえばモッコ役だった足立雄大郎も誘導アシストが上手い。彼の場合は技術というよりは天性のものといった感じ。でも素直にスゴいと思う。観てて気持ちいい視線のキッカケを与えてくれる良い役者さんだ。

 

☆視線誘導のバトンリレー

ということで、視線誘導における理想のお芝居環境は相互コミュニケーションで役者同士が同じ意図のもと視線を操作していく事にこそあると僕は思う。それぞれ役者は舞台上で常に「観客の視線」というバトンを渡し合ってカーテンコールまで走るバトンリレーをしていると思えばいい。体をどこに持っていくかも勿論大事なのだけど、立ち位置とはまた違った、見えないレーザー光線をそれぞれに当て合ってポジショニングを取る楽しさも意識してお芝居をしてもらえたらいいなぁと思う。「感情」や「間」に関して役者さん同士で相談している場面は多々あるけれど、「視線」について相談する機会を稽古中とかももっと増やしてもらえたら、また違った風景が見えてくるのでは。

簡単に自分なりのイメージでいえば、視線を向けるっていう事を習得するには「視線を外す」事がどういう事かを掘り下げれば答えは出てくるかなと。視線を向け続けている人の大概は、視線の外し方を知らない人というイメージが僕にはある。

 

☆視線誘導の失敗と死に間は別物と区別するべき

本人にとってのアクションとしての誘導アプローチ、そして共演者としての誘導アプローチ、双方が同一の意図のもとめまぐるしく交差すればこそ、観客は息つく暇もない舞台を味わえる。僕が観客で観に行って、ちょっと顔を下に向けたり、一緒に観劇しにいった人を見たりする時っていうのは、脚本の面白さとか別に関係なく、だいたいその誘導アプローチがすっぽりなくなってしまっている落とし穴にはまった場合に起こる事が多い。それは役者さんが気にしている、台詞の「死に間」とはまた別のもの。別の落とし穴があるって解るだけで、きっとだいぶ回避できるようになるはず。

 

その為にはやっぱり何よりもまず、同一の意図を共有する事。

それってつまりは、ちゃんと脚本を読めるようになる事だと思うから、結局ちゃんと役者さんには沢山本読んで欲しいなぁなんて思いつつ、終了。

 

以下、道井さんの舞台詳細。

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 <山田ジャパン>
いとうあさこ
カワモト文明
ただのあさのぶ
羽鳥由記
松本渉
横内亜弓
若村勇介
大海エリカ
<GUEST>
あやまん監督(あやまんJAPAN)
島根さだよし
玉手みずき
濱地美穂乃
道井良樹(電動夏子安置システム)
森一弥(エネルギー)
安田ユーシ
ユミ(Juliet)

 

【日程】

6/12(水)19:30
6/13(木)15:00 / 19:30
6/14(金)19:30
6/15(土)15:00 / 19:00
6/16(日)13:00 / 17:00

 

【チケット料金】
前売:3800円
当日:4300円
(全席指定)

 

予約は

noumenkun@hotmail.com

 


【黄金のコメディフェスティバル】参戦

8/16(金)~25(日)

電夏は【楽】に出演!!
詳細 http://www.come-fes.com/

 

 

■電動夏子安置システム

 池袋シアターグリーン3劇場同時公演

 10月23日~27日

 

◆第28回公演【檻の中にいるのはお前の方だ】
@BASE THEATER
◆第29回公演【机の上ではこちらが有利】

@BOX in BOX THEATER
◆第30回公演【ずいぶんと線引きの甘い地図】
@BIG TREE THEATER

 

 

 

 

 

 

 

 

役者に求められる100のインプットと100のアウトプット

覚える能力と考える能力。

 

人の賢さっていうのは上記2つの要素があると僕は思っている。

例えば誰しもが経験してきた受験勉強に関していえば、覚える能力が秀でていると「賢い人」になる。逆に現場のトラブルなどに応急対処する場合などでは、考える能力が求められる。だからか、○○大学出身は社会に出たらダメだ、みたいな(まぁそのほとんどは妬みの言葉で品の無いものだけど)事がよく言われたりするのだと思う。

 

本来、覚える事と考える事っていうのは、まるで逆のアプローチだ。

覚えるとはつまりインプットであり、考えるとはアウトプットにあたる。とはいえ、やはりインプットされた情報がないとアウトプットする事は勿論できないわけで、僕たちは仕事で常にそのインプット値とアウトプット値の両方を求められながら生きている。

でも実際世の中っていうのは、特殊な職業を除いて、その総合値の基準をできるだけリスクのない値に抑えるようにできているので、そんなに怖がる事でもない。

では、インプット値もアウトプット値も高い水準で求められる特殊職業って何?との疑問に答えると、例えば医者、弁護士、刑事、宇宙飛行士などなど。宇宙飛行士がそうならば運転する他の職業(タクシードライバーとかパイロットとか)だって同じなんじゃないの?と言われれば、でもやはりそうではなくて、車の運転や飛行機の運転もきっと発祥当時は高い能力を求められていた、という過去形になるのだと思う。

世の中のドラマなどを見ると、やはりインプットとアウトプットの双方を高い水準で求められる職業にフォーカスをあてたものがとても多い。やっぱり人は、アウトプットする人の行動を見てこそ尊敬したり、感動したりするんだろうな、と思う。

 

そして、ここからが本題なのだけども、

そうした特殊職業のトップに位置するものが実は僕は「役者」であると思っている。

 

編集された映像や完成された舞台を観賞するだけでは、役者に求められるアウトプット値を目の当たりにする事は決してできない。

実際役者は常に新鮮な情報(台詞やディテール)を100%インプットするよう求められ、その覚えた情報を即座に現実の世界に未知なるアクションとして今度は100%アウトプットしていかなければいけない。完全なアウトプットができない時点で、それはもうお芝居としては欠陥を抱えているということ…つまりは、その人そのものになれていないという事になる。

よくそんな難儀な仕事を皆選んだものだなぁと、僕は役者さんを見る度に思う。先ほども書いた通り、かといって鑑賞者にその凄さが解り易く伝わりづらい為、割が合わないのだ。僕だったらとてもじゃないけど、やれない。まぁ、元々の賢さが足りない事は勿論なのだけれど、僕みたいな邪で利己的な性格の人間はね、やっぱりやった事に対して確かな見返りを求めてしまうので。。。やれないより先に、うん、やらない。

でも、そうした非常に完璧なレベルでインプットもアウトプットも求められるからこそ、鑑賞者は演じている役者を見て現実の人物と錯覚し、リアルタイムに感動し、涙してくれるのだと思う。僕が脚本を書くのも、そうした役者さんたちの奇跡的なコラボレーションの瞬間を誰よりも観たいからに他ならない。

 

誰かに「役者になりたいんですけど…」なんて相談されたなら、僕はきっと「やめときな」って言う。常に賢さを求められて生きるっていうのは、やっぱり大変だ。

でも世の中の役者さん達は賢さを決して鑑賞者には見せない。

 

それって、とても粋な生き方だと思う。

小演劇作品の危ういバランスと脚本に潜む毒

週1回くらいで、できるだけ真摯に正直に文章を書いていこうと思う。

 

ここ1週間、仕事の延長線上で何本も小演劇作品を観劇した。

1作品ずつ詳しいレビューを書こうかなと思い、自分と同じような感想の人ってどのくらいいるのかなぁなんてネットで邪に検索したら、まるで自分と同じ感想が何処にも見当たらない。あれれ?なんでだろう•••僕の見方ってオカシイのか?なんて思ったのも束の間、直ぐにその答えは出た。

 

小演劇界は広いようで、ほんとに狭く、そして互いに共演しあった役者や、仕事しあった人がローテーションで観劇し合うような危ういバランスの元に成り立ってたりもする故、TwitterFacebook、更には劇場のアンケートであれど評価は高評価ばかりが見受けられる。 

 もはや劇場に一歩入ると、みんな観賞基準がおかしくなる。劇場の外の世界にはアカデミー賞も三大映画祭も芥川賞も直木賞もグラミー賞もト二ー賞もある世の中なのに、そういった作品郡とはハッキリ区別された採点基準で(脚本や演技や音楽や演出が)観賞され、やがて「前に共演した○○さん、がんばってたー☆」なんて何とも愛らしいツイートが飛ぶ。

僕は別に権威主義では全然ないから、賞とったものがスゴいなんて言う気はさらさらないのだけれども、賞をとった作品とも正面から向き合って戦っていきたい。

どうせ必死に物作りするならね、どんなに小さな箱であろうが、せめてその時、その年に上演している世界中の作品の中で、観た誰かにとっての一番でありたいなぁと思う。

だからこそ、できるだけ早く、こういった小演劇界の危ういバランスを覆さないと。でももう秘策は練ってあるから、あとは来年。

 

なんかいつの間にか小演劇作品に対しての雑感みたいな感じに文章がなってた。

じゃあせっかくだから、ついでにいつも観劇して残念に思う二つの要素をあげてみる。大概の作品は、その二つの要素のどちらかを脚本上に孕ませてしまう傾向が本当に強い。これはもう、演劇に関わる脚本家に声を大にして言いたい。

 

まず一つ目。

 

•登場人物に台詞で作品メッセージを長々と語らせる

もう、これが本当に多くて苛立つ。説教臭く、メッセージを言葉で熱く語る作品が本当に多い。皆ね、何かを伝えたいからこそ物作りをしているのだろうけど、でもそんなものを言葉で受け取る気なんて僕には残念ながら、さらさらない。言葉で伝わる程度の、例えば愛とか希望とか夢とかをもし僕が欲しているのならば、僕は何処かの新興宗教の集会にでもいく。そしたらきっと、明日が楽しくなる言葉のオンパレードだ。

物語がちゃんとしていれば、人間がしっかりと生きていれば、その人間本来の言動や表情、結末にメッセージは自ずと描かれる。主人公に直接作品のメッセージを代弁させて、希望はホニャララだからホニャララしようとか、愛はホニャララだからホニャララにあるよとか語らせる必要なんて、これっぽっちもないと思う。そういうのはJ-POPの歌詞に任せておけばいい。

登場人物は脚本家の代弁者では決してない。その世界が、物語自体が代弁の装置となる。それを解らない脚本家は、ずいぶんと人間を舐めてると思う。深い所で、人を馬鹿にしてる。そうでも言わなきゃ伝わらないなんて思ってるなら、それはとても鑑賞者に対して失礼な行為だ。

 

では、二つ目。

 

•誰が主人公か解らない。

 これは小演劇界特有の問題を色濃く含んでいる。確実に、劇場に人を集めたい→集客の為に多人数出す→出演者それぞれに美味しい場所を→という流れのせい。結局、そのバランスを最優先に考えて脚本が描かれる為、蓋を開けてみれば 誰が主人公で何がメインエピソードなのかサッパリわからない。

たとえ群像劇でも、本来ちゃんと主人公はいなくてはならず、主人公には主人公たりえるだけの物語が存在するはず。そこにフォーカスを当てるからこそ、その世界で、その瞬間その人物は主人公になるのだろうし、それだけクッキリと焦点があって描かれるからこそ、その内容が鑑賞者に伝わる。

きっとこの問題こそが、登場人物に台詞で作品メッセージを長々と語らせる、の一つの要因になっているようにも僕は思う。フォーカスがぼやけた作品進行に作り手が慌てるんだ。何を伝えたいんだか解らなくなってしまう事が怖くて、結果、1番恥ずかしい手法で帳尻を合わす。

 

小演劇作品の作り手は真摯に、この二つの問題から目を背けずに向き合うべきだと思う。特に演者さん。もしもそういった問題が脚本に潜んでいると気付いたならば、ちゃんと制作者にそれを稽古中でも前でも伝えるべきなんだ。だってその世界のその人物になるのは演者さん自身。嘘をついてる事が解ったうえで見逃してたら、どんなにお芝居を努力しようが、その人もつまりは共犯者なのだから。

 

上記二つの毒に冒されていない作品に、これからは沢山出会えるといいなぁ。

自分もこういった初歩的なミスをしないように、十分に注意しないとだな。