役者に求められる100のインプットと100のアウトプット
覚える能力と考える能力。
人の賢さっていうのは上記2つの要素があると僕は思っている。
例えば誰しもが経験してきた受験勉強に関していえば、覚える能力が秀でていると「賢い人」になる。逆に現場のトラブルなどに応急対処する場合などでは、考える能力が求められる。だからか、○○大学出身は社会に出たらダメだ、みたいな(まぁそのほとんどは妬みの言葉で品の無いものだけど)事がよく言われたりするのだと思う。
本来、覚える事と考える事っていうのは、まるで逆のアプローチだ。
覚えるとはつまりインプットであり、考えるとはアウトプットにあたる。とはいえ、やはりインプットされた情報がないとアウトプットする事は勿論できないわけで、僕たちは仕事で常にそのインプット値とアウトプット値の両方を求められながら生きている。
でも実際世の中っていうのは、特殊な職業を除いて、その総合値の基準をできるだけリスクのない値に抑えるようにできているので、そんなに怖がる事でもない。
では、インプット値もアウトプット値も高い水準で求められる特殊職業って何?との疑問に答えると、例えば医者、弁護士、刑事、宇宙飛行士などなど。宇宙飛行士がそうならば運転する他の職業(タクシードライバーとかパイロットとか)だって同じなんじゃないの?と言われれば、でもやはりそうではなくて、車の運転や飛行機の運転もきっと発祥当時は高い能力を求められていた、という過去形になるのだと思う。
世の中のドラマなどを見ると、やはりインプットとアウトプットの双方を高い水準で求められる職業にフォーカスをあてたものがとても多い。やっぱり人は、アウトプットする人の行動を見てこそ尊敬したり、感動したりするんだろうな、と思う。
そして、ここからが本題なのだけども、
そうした特殊職業のトップに位置するものが実は僕は「役者」であると思っている。
編集された映像や完成された舞台を観賞するだけでは、役者に求められるアウトプット値を目の当たりにする事は決してできない。
実際役者は常に新鮮な情報(台詞やディテール)を100%インプットするよう求められ、その覚えた情報を即座に現実の世界に未知なるアクションとして今度は100%アウトプットしていかなければいけない。完全なアウトプットができない時点で、それはもうお芝居としては欠陥を抱えているということ…つまりは、その人そのものになれていないという事になる。
よくそんな難儀な仕事を皆選んだものだなぁと、僕は役者さんを見る度に思う。先ほども書いた通り、かといって鑑賞者にその凄さが解り易く伝わりづらい為、割が合わないのだ。僕だったらとてもじゃないけど、やれない。まぁ、元々の賢さが足りない事は勿論なのだけれど、僕みたいな邪で利己的な性格の人間はね、やっぱりやった事に対して確かな見返りを求めてしまうので。。。やれないより先に、うん、やらない。
でも、そうした非常に完璧なレベルでインプットもアウトプットも求められるからこそ、鑑賞者は演じている役者を見て現実の人物と錯覚し、リアルタイムに感動し、涙してくれるのだと思う。僕が脚本を書くのも、そうした役者さんたちの奇跡的なコラボレーションの瞬間を誰よりも観たいからに他ならない。
誰かに「役者になりたいんですけど…」なんて相談されたなら、僕はきっと「やめときな」って言う。常に賢さを求められて生きるっていうのは、やっぱり大変だ。
でも世の中の役者さん達は賢さを決して鑑賞者には見せない。
それって、とても粋な生き方だと思う。